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横浜地方裁判所 昭和58年(ワ)162号 判決

原告

石井泰雄

被告

椎野光政

右訴訟代理人

平沼高明

関沢潤

堀井敬一

野邊寛太郎

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金四五万円及びこれに対する昭和五七年一二月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  第1項につき仮執行宣言。

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  本件診療の経過

(一) 原告は、奥臼歯一本に詰めてあつた金属が離脱したためこれを治療する目的で昭和五七年七月一〇日、被告の経営する椎野歯科医院を訪れた。

その際、原告は、被告方医院の診療申込の要領に従い、受診申込書の「治療に際して」の欄のうちの「悪い所は全部治療したい。」という項目にマル印をつけ被告に提出したが、これは、前記奥歯と同時期に治療した他の奥歯についても再治療の必要を感じていたためこれらの歯の治療をも合わせて依頼する趣旨に過ぎなかつたものであつて、原告としてはそれ以外の歯の治療をなす意図までは有していなかつた。

(二)(1) 原告は、同年七月二四日、被告から三回目の治療を受けたが、まず前回形成した上顎右側奥歯四本に金銀パラジウムの装着を受けた。

(2) 右処置が終つた後、原告は、被告から上顎切歯四本の治療を勧められ、その際、その治療をしても「目立たない金属の筋が一本入るだけなのでよいでしよう。」との説明を受けたので、上顎右側の犬歯と奥歯との間に一本の筋が入るだけのことだと信じて、右治療を受けることを承諾した。

ところが、被告は、右説明とは異なり原告に対し、四分の三冠(鋳造冠の歯冠形成の一つで唇面を残してそれ以外の面を削り金属を装着する方法)なる治療方法を右上顎切歯四本に対して施した。すなわち、右治療方法によれば右上顎切歯四本のそれぞれの隣接面(歯と歯が接している面)に被覆した金属が露出し合計五本の筋が入るところ、被告が前記のとおり不正確な説明をしたため原告は誤つてこれに承諾を与えてしまい、この結果、歯の隣接面のみならず舌面(歯の内側で舌に接している面)をも削りとられ、右上顎切歯四本の損傷を余儀なくされた。

2  被告の責任

原告は、前記のとおり奥歯の治療を受ける目的で被告方医院を訪れたのであり、それ以外の歯についてまで積極的に治療を依頼したわけではないのであるから、このようなばあい、被告としては、上顎切歯四本についてまで治療を試みようとするのであればとりわけ右各歯の症状について詳細に説明すべきであるし四分の三冠の治療をするについても右治療の結果が外貌に及ぼす影響につき具体的な説明をなすべき注意義務があるにもかかわらず、単に「一本の筋が入る。」との説明をなしたのみであるから、被告には右各歯に前記損傷を与えたことにつき責任がある。

3  損害

(一) 原告が損傷を受けた前記各歯の状態を現状より悪化させないために右欠損歯の維持補強に要する費用は各歯につき一〇万円であるから、この点に関する原告の損害は合計金四〇万円となる。

(二) 右各歯の損傷により原告の蒙つた精神的苦痛に対する慰藉料は金五万円をもつて相当とする。

4  よつて、原告は被告に対し、不法行為に基づく損害賠償として金四五万円及びこれに対する弁済期経過後である昭和五七年一二月九日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

二  請求原因に対する認否〈以下、省略〉

理由

一受診申込の趣旨内容について

原告が昭和五七年七月一〇日被告の経営する椎野歯科医院を訪れた事実及びその際被告に対し「悪い所は全部治療したい。」という項目にマル印をつけた受診申込書を提出した事実は当事者間に争いがない。そして、〈証拠〉によれば、右受診申込書の「来院された理由」の欄のうち「歯科健康相談と検診、口腔清掃もしたい。」「痛みはないがむし歯を治療したい。」という各項目及び「治療費について」の欄のうち「保険診療の範囲でよい。」という項目にそれぞれマル印が原告によつてつけられていたこと並びに被告は右受診申込書の記載に基づき、レントゲン撮影の結果、疾患のあることが判明したすべての歯について治療をする方針を決定したことが認められる。右事実のほか、原告は初診時に被告に対して前記受診申込書の記載を修正し治療箇所を限定する趣旨の申入れを口頭でした形跡がみられないということ、前記当事者間に争いのない事実及び、原告が後日上顎切歯の治療に応じているということ(後記2(二))などを合わせ考えれば、原告の主観的意思はともかく、客観的には、原告は昭和五七年七月一〇日被告方医院を訪れた際、被告に対し、保険診療の範囲内で悪い所は全部治療を受けたい旨の依頼をなしたと認めるべきであつて、診療申込の趣旨についてかつて治療したことのある奥歯の再治療に限定したとの原告の主張は採用できない。

2 上顎切歯四本の治療経緯について

(一)  請求原因1(二)(1)の事実は当事者間に争いがない。

(二)  〈証拠〉によれば次の事実が認められる。

(1)  原告は、昭和五七年七月二四日、被告から、上顎右側奥歯四本に金銀パラジウムの装着を受けた後、被告から上顎切歯四本にカリエスが認められる旨告げられその治療をすることを勧められた。

被告は、その際、原告に対して、治療後は「見た目には一本ずつ筋が入つて見えます。」と説明した。原告は、右の説明を聞き、上顎右側犬歯と第一小臼歯との間あたりに金属の筋が入ることになると解釈した。

一方、被告は、上顎切歯四本に対して四分の三冠の治療を施すことを原告が承諾したものと解し、右各歯の隣接面と舌面に形成を行つた。

(2)  それから一週間後の同月三一日、原告は、被告方医院において、被告に対して上顎切歯四本を削り過ぎているから復元せよと迫つた。更に、被告が試みに切歯二本に四分の三冠を装着してみせると、原告はこれを見て直ちに見た目の不快感を訴え、被告に対する抗議を強めた。そこで、やむなく、被告は、四分の三冠の装着を諦め、上顎切歯四本の形成した部分に複合レジンを充填した。

二被告の責任について

1 原告は、被告が四分の三冠を施すに際して、治療の対象となるべき歯の症状及び右治療の結果が外貌に及ぼす影響につき具体的な説明をなすべき注意義務を負つている旨主張するところ、歯科診療がその対象としている部位が外貌に影響を与えるものであること及び他の医療分野と異なり治療方法の選択につき患者が意見を述べ自己決定する度合が高いことから考えて、診療を行う歯科医師としては、場合によつては例えば患者の依頼に沿つた医学上の適切な治療を行えば足りるというのではなく、右治療の結果が患者の外貌に及ぼす影響についても充分に説明をし、その意思を確認して治療にあたるべき注意義務を負う場合のあることは否定できないが、しかし、一般的には、歯科医師としては、患者の身体的・生理的条件に従つて病巣に対する客観的に処置をすれば足りるものであつて、患者から格別の申し出があるとか、職業、性別、年令等患者特有の事情に鑑み明らかに美容上の効果を重視すべきことが予想される場合であるとか等特段の事由がない限り、逐一個々の患者の審美眼がどのようなものであるかを確認しそれに沿つた治療をなすべき注意義務まで負うものではないと解するのが相当である。かかる観点からみると、確かに、被告が原告に対し、治療後の歯の状態の点については、前認定のとおり、単に「見た目には一本ずつ筋が入つて見えます。」旨の説明をなしたのみであつて四分の三冠の治療を施すと上顎切歯四本に合計五本の金属の筋が入る結果となるということまで説明したとは認め難いものであつて、説明としてはやや明確を欠くものであることは否めないが、一方、被告が上顎切歯四本の治療をなすにあたり仕上り後歯に装着した金属が歯の前面にどのように露出することになるのかの点につき原告が重大な関心を寄せていたことを窺わせる事実を認めうるに足りる証拠はないし、前記の如き診療依頼の状況即ち原告が被告に対して保険診療の範囲内で悪い所は全部治療したい旨の依頼をなしていたこと、また、原告本人尋問の結果によると、原告は当時五一才の男性で日野自動車工業の機械の製造加工工であることを認めうることからすると、被告が四分の三冠の治療をするにあたり被告に対して原告が主張する程の具体的な説明をなすべき注意義務までは存しないと考えるのが相当である。また、〈証拠〉によれば、四分の三冠の治療は保険診療の範囲内で行いうる最も適切な治療であることが認められるから、結果としても被告の行つた右治療行為は原告の依頼の趣旨から逸脱したものではないということができる。

三以上の事実によれば、被告に不法行為責任があることを前提とする原告の本訴請求はその余の点につき判断するまでもなく理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(山口和男 髙山浩平 野々上友之)

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